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EXAMINATION I~J -考察-

EXAMINATION I~J -考察-


 宝石やジュエリーを、持つには持ってはいるがつけたことがないなどどいうのは、日本の金持ちの特性のひとつといってよいでしょう。自分に似合うかどうかよりも、持っているかどうかが裕福さの社会的シンボルだとしたら、宝飾文化は育ちません。宝飾文化とはデザインと技術とその享受によって培われていくからです。
 Case IおよびJのように自分には実際、ジュエリーが似合わないか、似合わないと思い込んでしまっている婦人が確かにいるものです。そして自分にはジュエリーが似合わないと決めてしまっている人や、ジュエリーなど自分には無縁だと断じている人に共通な点は、この種の人たちがジュエリーを外見的な装飾品だと考えていることです。
 このタイプの人たちは、ジュエリーが似合うかどうかは身体の問題だと考えていることです。ところがジュエリーが似合うかどうかは心身の事柄なのです。特に心象の事柄であります。その人の内面やキャラクターや指針を表現しようとすることが、あるジュエリーが似合うかどうかの転轍点であります。
 ジュエリーは置き物や鑑賞物であるよりもまず生きている身体につける造形物であります。素材は天然であるがデザインと制作技術は人の熟練された技と知恵の結晶です。その技と知恵は人の活動する身体と感情豊かな心を引き付けるものでなくてはなりません。ただ単に身体に装着する外見的な製品はジュエリーではなく、宝飾的ではあっても実は雑貨品なのです。宝飾性を装った雑貨品にすぎません。それらは業の鍛錬と、制作者の知恵が結晶していないので僅かな年月で色褪せてしまうでしょう。

『juicy2』

 身体に似合うか否かということよりも、自分の心象の表現として共鳴するものであるかどうかが、ジュエリーを自分の生活スタイルのシンボルのひとつとして認めるかどうかの出発点となります。
自分の内面性の表現としてジュエリーが意味を持ち得なければ、その人にとってジュエリーは宝の持ち腐れであり、豚に真珠であります。自分の心象が自分の生き方の表現としてジュエリーを欲求しない限り、その人にとってジュエリーは無縁のものであり続けます。
 人がつけているジュエリーはそれが借り物でない限り、必ずその持ち主に対して意味を持っています。自分で購入した物であれ、譲り受けた物であれジュエリーはその持ち主との特別な、しかも極めて私的な関係を物語っています。その関係はそれぞれ、物語化されて持ち主に生きた意味を与え続けます。そしてこの生きた意味がジュエリーパワーなのであります。
 自分の節くれだった指も、またひいき目に見ても綺麗だとは思えないプロポーションも、とりあえず自分の生きてきた人生の証明であることには間違いありません。しかも自分の容姿がいかようであれ、そのほとんどは天や神の創造の結果です。これを蔑むことは天につばを吐くようなものであります。
 まずあるがままの自分のキャラクターを素直に認め、歩んできた自分の過去を慰安し、今の自分に愛着を感ずるような心にならないと、ジュエリーというもので自分の存在感を表現してみようなどという気分にはなれないものです。自分を尊ぶ心の余裕と金銭的な余裕が前提にあり、さらに自分の存在感を物に刻んだり、意味づけしたいと思うようになった時に初めて人はジュエリーというものを自分に引き寄せて考えるようになるのです。

・・・Vol.12につづく。





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